八田豊

1930年福井県今立郡(現・鯖江市)生まれ。越前市(旧・武生市)在住。

 

戦後、金沢美術工芸専門学校(現・金沢美術工芸大学)を出たのち、中学の教員をしながら油画作品を制作をしていた。当初はキュビズムや構成主義の様式が作品に見られたが、作品は次第に抽象化を強めていき、古九谷の図案や装飾古墳など日本の古い文様に触発され、円のモチーフが多く見られるようになった。しかし前衛芸術を追求する八田は独自の表現に達するためには過去との決別が必要だとし、既得の手法である絵筆を捨て、描くことをさえも否定し、大きな転換点を迎えた。そして1960年代半ば、建材や金属板に彫刻刀やタガネで幾重にも重なった円を線刻する「カーヴィング」作品を編み出した。四角い画面の中で緊張感のある構図に配置された幾何学模様、彫られた線そのものが織りなす陰影、視覚的なモアレ効果など、その実験的な作品から、福井という地方都市から全国にその名を知られるようになった。

 

しかし、カーヴィングの制作は八田の目に多大な負担をかけ、視力は徐々に低下し、80年頃には視力を完全に失うにまで至った。カーヴィング手法をとることが困難になったどころか、制作そのものから離れることになったが、数年後には再び制作を再開した。キャンバスの上を流れる絵具の音を頼りにしたシリーズ「流れより」など、聴覚や触覚を使った絵画制作を再開した。強靭な精神力を持った八田ではあるが、作品の前で当時を振り返るとき、八田はその手で画面に触れながら、苦しみながら模索していた感覚が今なおよみがえると感情をあらわにする。1990年代からは絵具ではなく和紙やその原料の楮(こうぞ)など、地元越前の地場産業を支える素材を使った平面作品を制作しはじめ、キャンバスにはりつけられた楮の樹皮の力強さが現れたシリーズ「流れ」は八田の代表作となり、今なお制作を続けている。

 

また一方で、批評家の土岡秀太郎が中心になって推し進めた北美文化協会による美術運動の流れを継ぎ、80年代から「現代美術今立紙展」を、90年代から「国際丹南アートフェスティバル」などを中心になって開催し、地方からの文化運動を推進してきた面も特筆すべき点だ。活動は国内だけにとどまらず、紙文化を通じた韓国の美術家たちとの深い交流をはじめ、イタリアでの個展、アメリカ、フィリピン、ブラジル、イスラエル、スウェーデン、ドイツでの展覧会に若い作家らと参加するなど、地方から中央を介さず直接に世界と繋がることを推しすすめてきた。