浮田要三: 自画像
浮田要三は戦後、大阪で子どもの詩や絵が投稿された雑誌『きりん』の編集に携わっていました。当時、子どもの造形に強い関心を寄せていた前衛美術家の吉原治良は、『きりん』の表紙絵を選んでいた浮田に作家活動を薦め、彼は吉原が主宰する具体美術協会に入ることになります。吉原を師と仰いだ浮田は制作を続けるも、10年ほど後に『きりん』を辞め、そして自ら『具体』からも離れ、その後は袋工場を切り盛りして過ごしました。
作家活動から離れて20年ほど経った60歳を間近にして、浮田はドイツへ滞在制作の旅に出たことをきっかけに再び作家として本格的に制作を始めました。本展では、浮田が制作を再開した以降の作品を中心に展覧いたします。
ドイツ滞在中、合宿を共にした地元の画学生が、日常生活のどんなに小さなことにも気持ちを籠めている生活態度から作品をつくっている姿に触れ、「作品をつくるために、それ以外の実生活をどう考えて行為するか」の大切さを学んだと言います。制作から離れている期間にも、早朝から仕事にでかけ、いつの日か制作を再開するために自身を律し続けていた浮田をしても、生涯のなかで最大の改革だったと言わしめたほどでした。
これはかつて浮田が『きりん』第7巻第1号の中で以下のように記していたこととも通底しています。
「絵をかく時にだけ、すきな気もちをとりだして、仕事をするということは、できません。常日頃の生活の中で、こまごまとした事によく注意していて、物ごとをハンダンする力をやしなっておかなくては、思うままの絵はできません」。
制作と生活を切り離さずに同一線上に置き、浮田は一貫して感覚を研ぎ澄ませて日常生活に向き合うことを突き詰め、自身の存在の不安を乗り越えようとしました。作品は鮮やかな色彩の対比や麻袋の質感、角張った構成といった様式に変化し、晩年にかけてはより絵画的要素を突き抜けた物質を生み出すことを意識するようになりました。
ブランクを経て晩年にかけて制作意欲を増していって浮田が、生涯をかけて追い求めた自身の存在の証である「物」を多くの方にご覧いただきたく願っております。
協力(敬称略):LADS GALLERY、一般社団法人ぷれジョブ「浮田要三と『きりん』の資料室」、小﨑唯、猿澤恵子、中島久美子、森川敏子