マッドスプリング: グループ展
企画|Kanda & Oliveira、梅津庸一
協力|KEN NAKAHASHI、WAITINGROOM、Office Toyofuku、灯工舎、Kawara Printmaking Laboratory
出展作家|安藤裕美、冨谷悦子、川島郁予、森栄喜、高田冬彦、東城信之介、梅津庸一
本展について
展覧会のキュレーションには口実を用意しなければならない。「多様性」「サステナビリティ」「アフターコロナ」などとりあえず何かテーマを掲げなければならない。しかし建前だとしても口実があるだけまだマシで現代アートを謳いながらも若手作家を適当に集めて売り抜くだけの展覧会も増えている。また、最近展覧会を見てまわっていると「お手本のように政治的に正しい社会派の作品」か「極度に私小説的な作品」の二極化がさらに進行しているように感じる。「政治的」「美学的」の横断にこそ美術の醍醐味があると僕は思ってきたが、どちらかに極振りしないとそれぞれのマーケットで生存できないという事情があるのかもしれない。
いや、それは違う。Twitterに投稿する詭弁としては御誂え向きのコメントかもしれないが、現状はもっとだらしなく退屈な地平が延々と広がっている。
と、前置きをしておきながら本展「マッドスプリング」には明確なテーマが設定されていない。その時点でこんな文章を書くのはそもそも筋違いなのかもしれないが本展が開催される経緯を簡単に説明させてほしい。
今日、ギャラリーであれ美術館であれ、いたる所で展覧会は絶え間なく開催され続けている。そんな飽和状態とも言える状況下でここKanda & Oliveiraは昨年千葉県の西船橋にオープンした。しかしできたばかりの新しいギャラリーということもあり、明確なビジョンや運営理念は持ち合わせていなかった。前回ここで開催した「フェアトレード」展は僕のコロナ禍以降の実践と問題意識を反映した渾身の展覧会だったが、Kanda & Oliveiraの今後の方針にも影響を及ぼしたようだ。コマーシャルギャラリーは通常は専属の所属作家を有し、音楽レーベルのように作家とギャラリーが二人三脚でブランドイメージを形作るのが通例だ。けれども日本におけるコマーシャルギャラリーは作家と契約を交わさないにもかかわらず強い拘束力を持ち、時として作家の活動を抑圧し制限してしまう要因にもなっている。もちろん健全な関係を築いているケースの方が圧倒的に多いわけだが。この20年のあいだに日本にも現代アート系のギャラリーは増加しインフラがだいぶ整った。それによって作家は発表場所が確保され活動しやすくなった一方でギャラリーのシステムや慣習に規定されるようにもなった。
『美術手帖』2006年7月号に掲載されているテキスト「〈内向〉の技法、帰属なき〈表象〉―「ゼロゼロ・ジェネレーション」という時代」で椹木野衣は以下のように述べている。
「社会的な諸条件は画材やメディアと同様、美術家にとって異化すべき材料くらいに考えるべきだろう。むしろ、凡庸でつまらないアートほど、実際には社会的な諸条件に規定されつくされていて、ゆえにそのことに気づかない。」
僕は基本的にこの意見に同意なのだが椹木はこの社会的な諸条件の規定から逃れるための手段として「帰属を失った身体(表象)への容赦のない視線、そしてそれが生み出す徹底した技巧の行使による没主体的な生成としての内向」を提案している。つまりグローバルスタンダードや国家、諸制度から逸脱し、さらに主体を放棄して生成される過剰さを推奨していると読むことができる。いうなれば前衛的な態度の延長線上にある。けれども今更確認するまでもなく椹木がここで取り上げた作家たちは次々と新興のコマーシャルギャラリーへと回収され存在感を失っていった。かくゆう僕自身もそうだった。「逸脱」や「過剰さ」はアートマーケット内でのセールスポイントへと収斂していった。「わたしは他とは違う」という「差異化」を一種の過剰さや規定できなさに賭けてしまうのはアーティストの宿命でもあるが果たして固有性とは差異化の先にあるものなのだろうか。
そんな経過を知ってか知らずか、Kanda & Oliveiraは敢えていわゆる所属作家制に固執するのではなく作家とその都度プロジェクトベースで展覧会も積極的に企画していく道を選んだ。本展は「フェアトレード」展の次の展覧会のアイデアがなかなか浮かばず、うさぎのような表情をして困っていたギャラリストの神田雄亮さんのために提案した企画である。「フェアトレード」展の設営期間中に締め切りを控えた『ゲンロン14』の表紙の絵をギャラリーで制作させてもらったことからその作品を含んだグループ展はどうかと。『ゲンロン14』の表紙に採用された《うさぎ、美術の良識からの逸脱》はうさぎをモチーフにした10枚に及ぶ連作なのだが、最初から連作だったわけではなかった。ゲンロンの上田代表からの度重なるリテイクによって枚数がどんどん増えていったのだった。制作は難航したが「もっとポップに」「書店の群雄割拠の中で勝たねばならない」「文芸誌っぽさを排除する方向で」「うさぎは大きめ」などのオーダーに応えるうちに普段アトリエで自由に制作していたら描くことはできなかったであろう作品に仕上がった。ここで内容には触れないが『ゲンロン14』には僕のエッセイも掲載されており実はそれこそが「フェアトレード」展および本展に通底する気分なのである。
出展作家はアート・コレクティブ、パープルームで長年ともに活動してきた安藤裕美さん以外はほとんど会ったことすらない作家たちを選出した。僕が作家を選び、会場構成を担当した時点でキュレーションの力学が働くしその責任から逃れるつもりはない。けれども声高に主張したいステートメントもない。ただひたすら一観客として今Kanda & Oliveiraの空間で見たい展覧会を目指した。作家である以前から美術の観客でもある自分の20年間の鑑賞体験を振り返り僕は美術の何に惹かれてきたのかと自問自答した。批評的な言説やギャラリーというフレームになるべく規定されないもの。そしてその中から時間的、条件的問題をクリアできそうなものを再配置する。きわめて個人的な鑑賞体験をギャラリーという装置を経由して可視化する際に「私的」だと思っていたものと「公的」なものを取り違える。そう「作家」も「キュレーター」もただの役割に過ぎない。そして与えられた特権に一時的であれ鈍感でなければその力を行使することは難しいのだ。つまり社会やアートの諸条件から規定されることから免れるのは不可能なのである。社会や環境に規定され、また規定することこそが人の営為なのだから。アーティストによる制度批判、または規範から逸脱を志向することも最初から「アート」に織り込み済みなのだ。
僕は正直に言えばいわゆる「現代アート」に疲れているし、もはやついていける気もしない。それでも僕は美術の世界で生きていくだろうし、他の生き方を知らない。そしてここ数年で僕は寿司職人や編集者、v系のバンドマン、バーテンダー、などの地道な営みを積み重ねる人々に尊敬の念を抱くようになった。素朴な話になるが、美術全体が進むべき道なんて到底考えられないが展覧会やギャラリー単位で考えた時に誰かにとって大事な機会、場所を作ることに注力するのも悪くないのではないかと真剣に思っている。
たとえば、飲食店が競合他社に負けないようにより良いサービス、味、宣伝を追求するのは当然だが、美術の世界はしのぎを削ろうにもステージ自体が地盤沈下しつつある。
冒頭から現在の美術の現状がいかにダメかということを書き連ねてしまったが、それを他人のせいにする暇があったら少しでもアートを取り巻く環境が改善するよう努力していきたい。僕はガイドラインや制度を整えるよりも愚直に作品を作り、個別の営みへの愛を表明していくという非効率極まりない道でもがいていこうと思う。
最後になるが十数年前に出会い羨望の眼差しを向けていた冨谷悦子さんや川島郁予さんの作品と共演できることを嬉しく思う。くわえて、なぜか西船橋で開廊してしまったKanda & Oliveiraが天王洲をはじめとする都内のギャラリーとは違う役割を担っていくことに期待している。今後予定されているいくつかのプログラムには僕からの「お土産」が多少反映されるはずだが、本展を機にKanda & Oliveiraが自立の道を歩むことを切に願っている。
アート界の移り変わりは早い。季節も春から夏になろうとしている。
梅津庸一