浮田要三

1924年大阪府生まれ、2013年永眠。

 

戦後、子どもの詩や絵画の投稿雑誌『きりん』の編集者となった浮田は幾多もの詩や絵画作品を選定をするなか、その浮田の美的感覚が具体美術協会を後に立ち上げる吉原治良の目にとまり、吉原から作品制作をすすめられ1955年に具体美術協会のメンバーとなった。同年7月に開かれた「真夏の太陽にいどむ野外モダンアート実験展」を皮切りに、同年10月の第1回具体美術展から1964年の第14回展まで具体美術展の多くに参加した。

 

1955年12月には具体メンバーが協力し子どもの図画工作の公募展「きりん展」が大阪市立美術館で開かれ、その後も『きりん』誌面には多くの具体メンバーが作品を寄せるなど、初期の実験的な時期であった「具体」と「きりん」は、子どもの創作に対等に向き合う態度を通じて、密接な関わりを持っていた。

 

1962年に『きりん』から離れ、1964年には自分には新しい絵画をつくれないからと「具体」をも退会したあとは、袋工場の経営者と過ごし表立った作家活動を休止していた。しかし1983年、「具体」の盟友であった嶋本昭三に誘われデュセルドルフで開かれた「具体AU6人展」に参加し、仲間や地元の画学生らと現地で制作したことをきっかけに作家活動を再開した。浮田をして「ボクの細胞を全部入れ替える」ものだったといわしめたほどの転機であり、20年の時を経て美術家として浮田は開眼した。作風はかつてのアンフォルメル様式から、赤、青、黄色といった明るい色彩と、四角が織りなすシンプルかつ大胆な構成、ドンゴロスなど質感のある素材が織りなす独自の作品へと変化していった。浮田は絵画を追求せず、自身の存在の証としての「物」を追求した。それは「具体」の精神である「人間精神と物質が対立したまま握手している」を、「具体」のくびきから解き放たれたことで具現化できたものであった。70代でフィンランドのフォルッサに1年間滞在して制作・発表するなど創作意欲は増してゆくばかりで、作品は晩年にかけてよりシンプルさを極め、透明感さえ感じるほどになっていったが、病のため、制作を続けるも2013年に他界。袋工場の跡地にあった浮田のアトリエは、長年、子どもや生きづらさ・障がいを抱えた人が集まった画塾にもなっていた。